真田家と六文銭14

小県地方には今でもたくさんの城跡が残っているが、「千葉城」という名の城はどこにもない。
そのことから、この千葉城の所在は長く不明とされてきた。
しかし、『真田町誌』は『御符札之古書』でいう「千葉城」というのは「洗馬城」のことを指すのではないかという新たな説を投げかけた。
「千葉」というのは「ちば」と読むのではなく、「せんば」つまり「洗馬」の音の当て字であるというのである。
『真田町誌』のいうように、「千葉城」を「洗馬城」と解釈するなら、「洗馬城」は真田町の北西にあることから、村上氏は今度は雪解けを待って真田郷のすぐ近くまで侵略を開始したことになる。
そこは横尾氏や曲尾氏という豪族たちの領内であった。
『真田町誌』によると、この「洗馬城」の攻防で、海野氏は侵略者である村上氏に対して横尾氏や曲尾氏といった地元の豪族たちを率いて戦ったという。
しかし、戦い敗れ、城は落ち、そこは村上氏に侵略されることになった。
しかも、そのとき、海野氏はそれらの豪族領主たちを切り捨ててしまったといわれ、洗馬城近くの領主堀内・半田・曲尾、横尾氏らはやむなく村上氏の支配下につくしかなかったという。
ここに、真田郷近辺の有力な豪族のうち真田氏以外の豪族が村上氏の配下になってしまい、真田氏は孤立してしまった。
地図上から、これらの豪族たちの領地と真田氏の領地を見てみると、その間には神川が存在していることが分かる。
あるいは、これが村上氏が真田氏の領地まで攻め込めなかった一つの理由といえるかもしれない。
川は村上氏の侵攻を防ぐ防御線となったのか。

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