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真田家と六文銭30

『真田御武功記』という書には、海野幸義が戦死したとき幸隆は自らも討死を覚悟していたが、そこに白鳥明神の使いと称する神子が現れて鉾を逆さに持ち、「この鉾を持って敵陣を破り、ここを逃れて時を待ちなさい。そのうち、必ず本望を達するときが来ます。」...
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真田家と六文銭29

そこから、真田幸隆、そしてそれ以降の真田氏は海野を詐称したのではなく、海野氏嫡流という立場を明確にしたものともいえる。真田氏は幸隆はもちろんその子の昌幸、さらには孫の信之とまったく断絶することなく自らが海野氏であることに大きな誇りをもち、そ...
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真田家と六文銭28

以上のことから、幸隆は海野棟綱の子、もしくは棟綱の娘の子というような海野氏の嫡流もしくはそれに近い血を引く人物であったのではないかということが推理できよう。先にも述べたが、『加沢記』によると、関東管領上杉憲政は真田幸隆との対面に際して、箕輪...
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真田家と六文銭27

幸隆の出自を考える上で、もう一つ気になるのは、幸隆の若いときの名乗りである。幸隆は永禄二年(一五五九)ころ主君信玄の出家に伴って自らも頭を剃って入道となり「真田一徳斎」となってからその晩年に「幸隆」と名乗ったとされている。つまり、「幸隆」と...
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真田家と六文銭26

その真田氏に海野家嫡流の確かな血筋の幸隆が入ってきたことにより、それ以前の真田氏に関することが消えてしまった。それを端的に表しているのが「日向畑遺跡」なのではなかろうか。幸隆にとっての先祖とはあくまでも海野本家であり、「日向畑遺跡」の真田氏...
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真田家と六文銭25

これらの資料はどれも幸隆が海野から真田の地にきて初めて真田を名乗ったとしているが、幸隆は海野棟綱の嫡男ではなく次男とされている。そこから、海野家を出て他家、この場合は真田家を継ぐことは大いに考えられるのだが、どれも幸隆が初めて真田を名乗った...
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真田家と六文銭24

真田屋敷跡から出土している中国銭は最も古いものが唐の時代(六一八~九〇七)の開元通宝、最も新しいものが明の時代一四〇八年から鋳造が始まった永楽通宝であったことから、この中国銭が埋められたのは、一四〇八年以降ということになる。全国で埋蔵銭の調...
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真田家と六文銭23

比較的信憑性の高い資料と言われている沼田真田家の家臣であった加沢平左衛門が江戸時代天和元年(一六八一)以降に著したとされる『加沢記』にも、幸隆は海野棟綱の次男で棟綱がその領地の内、真田、小日向、横沢、原郷、荒井など三百貫目の土地を譲ったこと...
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真田家と六文銭22

今も残る真田家系図には、微妙にその流れが二つの系統からなっていることが分かる。「松代藩真田家系図」や「滋野世紀系系図」などその一つの系統は、真田幸隆を村上氏によって信州小県から追放され上州に逃げた海野家の当主棟綱の子としているか、もしくは村...
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真田家と六文銭21

信玄が信濃侵略を推し進めていく限り、近い将来必ず村上義清と衝突せざるを得ない事態がやってくる。信玄が村上氏を倒せば、真田郷の奪還も夢ではない。しかし、それには、幸隆自身が信玄に近づき、信玄のもとで村上氏打倒の先兵として立ち上がるしかない。『...