真田家と六文銭27

幸隆の出自を考える上で、もう一つ気になるのは、幸隆の若いときの名乗りである。
幸隆は永禄二年(一五五九)ころ主君信玄の出家に伴って自らも頭を剃って入道となり「真田一徳斎」となってからその晩年に「幸隆」と名乗ったとされている。
つまり、「幸隆」という名は実は晩年の名であり、幸隆の名は確かな文献によれば早い時期には「幸綱」と記されているというのである。
例えば、高野山蓮華定院の過去帳には天文九年(一五四〇)にも「弾正忠幸綱」と記され、永禄五年(一五六二)の四阿山(あずまやさん)奥社殿扉に書かれた名前も「大檀那幸綱」となっている。
つまり、幸隆は「真田幸綱」というのが若いころの正式な名であったと思われるのである。
だが、最近の研究では「幸隆」の名乗りは幸隆四十歳の時の天文二十一年の賀詞に見えることから、幸隆は「幸隆」「幸綱」という両方の名を使用していたようである。(石川昌子『真田幸隆(幸綱)新資料紹介』武田氏研究)
「信州滋野氏三家系図」などを見ると「幸綱」の「幸」という一字は明らかに海野氏の流れを汲む人物の名乗りであることがわかり、「綱」は村上氏に追われた海野氏の当主の名「棟綱」から来ているとも思われる。
というのは、海野氏の系図を見ると「綱」を名乗る人物がほとんどいないからである。
そう考えると、幸隆が棟綱の子、もしくは孫であったという多くの真田家系図の説はどこか信憑性を帯びてくるのである。

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