豊後大友館

10月度のNHK学園歴史講座では、大分の「大友宗麟顕彰会」の事務局長様から送っていただいた大友館発掘、復元された庭園の資料を受講者の皆様に配布し、大友館発掘に至ったエピソードや館の構造について初めに学びました。
私が大分市を訪ねた二年半前は大友館は発掘中で、庭園跡も庭石や池がほぼ発掘が終わったところでした。
大分市の中心部に近いこの場所、しかも200メートル四方もあるような場所が全面発掘されるなど奇跡に等しいことで、
大分県の発掘に対する意気込みのすごさを感じることができました。
大分は当時豊後府内と呼ばれ、ヨーロッパにまで知れ渡っていた国際貿易都市であったようです。
そこには、西洋医学の病院が建ち、教会では西洋音楽が奏でられ、さらには、中国人街、チャイナタウンまでも形成されていました。
整然と区画された町にあって、大友館は京都の室町将軍館を模し、美しい土塀で囲まれた優雅な建物であったことが分かっています。
ただ、周囲に敵が増えるにつれて、館は防衛上の不備が目立ち、宗麟は拠点を府内の隣の臼杵の丹生島に移しそこに城を築きます。
丹生島は臼杵の海岸近くに浮かぶ独立した小さな岩石島で、島自体が要害地形となっていました。
今は海岸は埋められ、城は陸続きになっていますが、当時は橋一つで陸とつながっていたようです。
宗麟が臼杵に拠点を移すと、キリスト教の大きなの教会や学校なども海岸近くに建てられるなどし、臼杵は国際都市のような様相を呈したといいます。
さらなる発掘で、まだまだいろんなことが分かってくることでしょう。
大分府内は当時の日本の最先端の町であったことは間違いありません。

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