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昔、佐和山に登ったこと⑰

絢爛豪華であったはずの佐和山城の面影は現在の城跡ではどこにも見つけることはできなかった。その現場で判明したことは、誰かが、故意にこの城を石垣の石に至るまで跡形もなく破壊したということであった。一体、何のために、なぜこれほどまでに無惨に一つの...
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昔、佐和山に登ったこと⑯

桜井教授は、戦前、土砂に埋もれていた織田信長の居城、安土城の発掘に初めて携わった人物でもあり、安土城の他にも多くの全国の城の調査にも関わっていたという。教授は、そんな貴重なお話を惜しげもなく、私に話して下さった。私は、当時、絶版になっていた...
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昔、佐和山に登ったこと⑮

この『社頭古絵図』に描かれている天守閣については、今も研究者の間で評価が分かれている。その第一の原因はそこに描かれている天守が三層であるということ、そして、古絵図に貼られた「澤山城」という付札は後世貼られた可能性が高く、そのため、これは佐和...
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昔、佐和山に登ったこと⑭

私は、多賀大社に行くと社務所に行き、そこで「社頭古絵図」を見せてもらうようにお願いした。だが、絵図は神社の大事な宝物だということで「一般公開はしていない」とむげに断られた。しかし、次はこの多賀大社にいつ来れるか分らない。わざわざ絵図を見るた...
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昔、佐和山に登ったこと⑬

彦根市から五キロほど南に位置する滋賀県犬上郡甲良町にある湖東三山の名刹西明寺があるが、西明寺には江戸時代中期に石田三成の旧臣たちにより奉納されたと伝わる大絵額があり、そこに佐和山城の天守閣が描かれているという。私は、地図を見ながら車を飛ばし...
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昔、佐和山に登ったこと⑫

当時、佐和山城の裏門から百間橋という橋が内湖対岸の入り江に向かって架けられていた。橋は直線ではなく三度曲折し、まさに湖に浮くような作りであったという。湖と橋と一体になった佐和山城は絵のような美しい景観をかもしだしていたに違いない。本当に美し...
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昔、佐和山に登ったこと⑪

三成の屋敷は御殿と呼ばれ、城の背面、琵琶湖の内湖に面した高台にあったようだ。そして、内湖には、城から百間橋という橋が対岸の松原という湖に浮かぶ小島にかけられ、そこには米蔵などの倉庫と琵琶湖の入り江の港があった。また、佐和山城の大手は中山道に...
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昔、佐和山に登ったこと⑩

三成は佐和山城主になると、さっそく、城の改修にとりかかった。わずかに残る当時三成が出した文書には天正十八年(一五九〇)「『佐和山惣構部普請』にあたって四郡の百姓たちを動員したい」とあることから、城は「惣構(そうがまえ)」つまり、城の外郭部の...
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昔、佐和山に登ったこと⑨

そこで、素人の私にも分ったことは、この城は城全体を覆っていたであろう石垣が崩され、そのため、城が原形を留めないほどに破壊されて、山と同化して自然地形のようになっていたということである。しかも、石垣の石は一つも残すことなく故意に抜き取られてお...
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昔、佐和山に登ったこと⑧

その年の秋、長谷川氏の家を訪ね、氏のライトバンに乗せてもらい佐和山に連れていってもらった。長谷川氏親子は、もう、この城跡には何十回も足を運んでいるのであろう。軽快なフットワークで迷うことなく山の隅々まで私を案内してくれた。しかも、ただ、案内...