昔、佐和山に登ったこと⑲

「城破り」の好例が、江戸時代、寛永十四年(一六三七)に起こった島原の乱の主戦場となった九州長崎県の原城である。
この城は、もともとこの地の領主であった有馬氏が築いた城で、有馬氏が慶長十九年(一六一四)に日向(宮崎県)に移されると、次の領主の松倉氏により、一度、「城破り」、つまり破却を受けていた。
だが、島原の乱が勃発するとここは一揆の拠点となって島原藩や幕府に強固な抵抗を見せた。
また、幕府軍もこの城を攻めあぐねたことは周知の事実である。
ここから、「城破り」といっても徹底的なものではなく、ある程度修築すれば城は使える状態にあったということが分かる。
このことに懲りた幕府は、乱を平定した後、原城を今度は徹底的に破壊したことはいうまでもない。
そこでは、主要な石垣を崩し、堀を埋め、その場所をさらに粘土を使って盛土をするという念の入れようであった。
しかし、それでも、原城は最近の発掘で天守閣のような大きな櫓があったと思われる櫓台の石垣が出土したばかりか、外から見えにくい部分の門があったと推定される場所には石垣がきちんと残されていたという。
幕府を苦しめた原城は二度にわたって徹底的に破壊されたはずであるが、それでも城跡を示す石垣の一部はしっかりと存在しており、城跡が消失するほどの破壊は受けてはいないのである。
それに比して、佐和山城はどうであろうか。
城全体が破壊されているだけでなく、山頂の本丸があったところは「切り落とし」までも受けているのである。
このあまりにもすさまじい「破城」「城破り」は他にも例が無いのではなかろうか。

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