昔、佐和山に登ったこと⑮

この『社頭古絵図』に描かれている天守閣については、今も研究者の間で評価が分かれている。
その第一の原因はそこに描かれている天守が三層であるということ、そして、古絵図に貼られた「澤山城」という付札は後世貼られた可能性が高く、そのため、これは佐和山城ではなく、創建当初の彦根城の三重の天守を描いたものではないかという疑いがもたれているのである。
一方、その周囲に描かれている景観の位置関係、例えば、古絵図の右上に、まだ彦根城が築かれる前の彦根山とその山麓にあった千代宮が描かれていることなどから、古絵図は彦根城築城以前の景観を描いたものとも考えられる。
そうすると、そこに描かれている天主は彦根城のものではなく必然的に佐和山城のものということになる。
このように、両説はそれぞれ一長一短を有しており今でも決定的な決め手はない。
私は、このとき撮らせていただいた写真を拡大して、当時、東京八王子郊外に住んでおられた青山学院大学の故桜井成廣名誉教授を訪ねた。
桜井教授は、かつて陸軍の築城本部に勤務し、戦前、まだほとんど手のついていなかった日本の城の研究を続けてきた日本における城郭史研究の草分けの一人である。
教授は、特に、豊臣時代の城に詳しく、当時の図面や文献を精査し、その復元を試みており、博士の自宅にはその復元模型が所狭しと置かれていた。
その中には、もう、今では完全に地上から姿を消してしまった豊臣時代の幻の伏見城などもあり、それを間近に見ることができ興味は尽きなかった。

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