昔、佐和山に登ったこと⑰

絢爛豪華であったはずの佐和山城の面影は現在の城跡ではどこにも見つけることはできなかった。
その現場で判明したことは、誰かが、故意にこの城を石垣の石に至るまで跡形もなく破壊したということであった
。一体、何のために、なぜこれほどまでに無惨に一つの城を破壊する必要があったのであろうか。
彦根市に伝わる『古城山往昔之物語聞書』という江戸時代の「聞書」によれば、「井伊家がこの地を拝領した後、(城を)切り落とした」とあり、続いて「九間切り落としたともいい、七間ともいう」とある。
この聞書によれば、石田三成が関が原合戦で敗れた後、この地に入ってきた井伊家は彦根城を新たに築くにあたって佐和山城を「切り落とした」というのである。
この「切り落とした」という表現は大変微妙な意味を含んでいる。
その意味するところは、ただ、城を破壊したというだけではない。
それは、佐和山の山そのものを変貌させたということを示している。
確かに、新たな領主が入ってきたとき、領主の交代を領民に示すために、前の領主の城を破却することはこれまでにもあった。
これは、戦国時代から行われてきた、ある意味での慣習でもあった。
また、江戸時代に入ってからも、大坂の陣が終わって、豊臣家が滅んだ後、江戸幕府は一国一城令を出し、国には原則的に城を一つだけとし、それ以外の城を破却するよう言い渡している。
このときも、これまであった多くの城が壊されている。
この城を壊す行為は「城破り」または「破城」といって、この時代はある意味では一般的に行われてきた行為である。
しかし、城を壊すといっても、大体は建物を壊すか、石垣の一部を壊す程度で、城跡そのものを消滅させるような例などはあまりない。

タイトルとURLをコピーしました