昔、佐和山に登ったこと⑱

『城破りの考古学』という本によると、この「城割り」、「破城」には一定の暗黙のルールのようなものがあるという。
城というのは領民や他の領主に力を見せつけるために築かれたという一面をもっている。
それは、また、逆に考えれば、領民や他の領主を見渡すものであったともいえる。
そのため、城はその条件を満たすような目立つ場所、眺望のよいところに築かれることが多かった。
城の破壊者はその意図をなくす必要があり、城主が最も領民などに見せたいポイント、外から見て目立つ場所を中心に破壊するというのである。
例えば、天守閣、櫓、門などの建物はもちろん、外からよく見える場所の石垣、土塁なども削り落としたり、目立つ堀なども埋めてしまう。
山の上に築かれている山城などでは、樹木までも伐採して、城内の様子を外から丸見えにするという。
こうすることによって、「敗者と勝者が世間に対して降伏、服従を表明し、城地と領主との関係を断ち切る」というのである。
しかし、逆に、外から見えない部分は破却を免れる場合が多く、現在、残っているのはそうした部分が多いという。
これは城を壊すといっても、そこには時間と手間と労力と、そして無駄な金がかかるからなのだろう。
だが、佐和山城はどうもこの暗黙のルールに当てはまらない。
そこでは、外から見える部分も見えない部分も完全に破壊されている。
しかも、おそらく城内にあったであろう石垣は石一つまでも残さず抜き取られ持ち去られており、その城の中心があった山頂までも「切り落とし」されているのだ。

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