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宣教師の見た秀吉⑮

伴天連追放令 秀吉はフスタ船に乗って上機嫌に宣教師たちと談笑した僅か九日後に突如三箇条からなる伴天連追放令を宣教師たちに突きつけた。 キリシタン大名高山右近は秀吉の性格について熟知しており、普段から、太閤には気を付けるよう宣教師たちに警...
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宣教師の見た秀吉⑭

さらに、ヴァリニャーノは「日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきは何もなく、また、国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。しかし...
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宣教師の見た秀吉⑬

キリスト教の信者が増加し、さらには有馬晴信、大村純忠、大友宗麟、小西行長、高山右近、黒田官兵衛らの有力な大名たちが入信するに及んで、イエズス会宣教師、そしてその背後にいるポルトガルは日本の植民地化、そのための日本に対する武力行使を主張するよ...
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宣教師の見た秀吉⑫

「司祭たちは取り合えず一室を用意し、関白をそこに通した。彼らはそこで関白及び同行してフスタ船に入って来た武将たちに幾つかの菓子を供し、若干のレモン漬けや生姜、及び少量のポルトガルの葡萄酒を土産物として持ち帰られるようにと言った。彼は二三度繰...
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宣教師の見た秀吉⑪

実は秀吉がシナへの征服を口にしたのはこのときが初めてではなかった。 秀吉は以前コエリョが大坂城を訪問した際も「海の彼方に進出して領土を拡張するのがこの先の夢である」とコエリョに語っていた。 さらに「その際は南蛮船を提供するよう」と命令と...
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宣教師の見た秀吉⑩

秀吉は島津が降伏した後、再び肥後八代に寄ったが、そこに各地から参集した諸侯が秀吉の御機嫌伺いにやってきた。 「自分を訪ねて来る君侯や武将たちを、虫けら同然に見なし、彼らに対しても、下(九州)の殿たちに対して行ったと同様に彼奴(きやつ)呼ば...
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宣教師の見た秀吉⑨

だが、フロイスによると、九州島津征伐は海陸両面から導入された巨大な軍隊にもかかわらず、秀吉が想像していたほどの大きな戦果は上がらなかったようである。 秀吉軍は肥後の八代から薩摩国境に進み、川内という大河のほとりに布陣した。 だが、そこで...
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宣教師の見た秀吉⑧

「この西国の島(九州)は他島(本州)からは離れており、それに加えて幾多の戦力と軍兵が配備されている。関白自らが下向してくるなどとは虚構であり、当地方は遠く隔たり日本の果てにあるし、関白の背後には、信用の置けない大勢の大敵が控えている。もしも...
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宣教師の見た秀吉⑦

九州島津征伐 秀吉が九州の戦国大名大友宗麟の援軍の要請に対して動き出したのは、すでに大友が島津との決戦(耳川・高城の戦い)に敗れてから八年が経過してからのことであった。 その間、九州では島津が大きく勢力を拡張して、大友と並ぶ強敵肥前の龍...
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宣教師の見た秀吉⑥

北条征伐と九州征伐の実態 天正18年(1590)秀吉は北条征伐に踏み切ったが、フロイスは北条の城(小田原城)には十分な貯えと兵力があり、そうやすやすと陥落するはずはないとの思いをもっていた。 一方、秀吉は二十万の兵力を動員したものの、遠...
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