宣教師の見た秀吉⑯

だが、秀吉の伴天連追放令は後の徳川幕府のような徹底したものではなかったようである。
九州に集められた宣教師は国外退去の命を受けて謹慎はしたが、実際に国外に退去したものは一人もいなかった。
それどころか、ヴァリニャーノに伴われて日本に帰って来た四人の少年使節を聚楽第に迎え、都に長く滞在していた宣教師オルガンティーノには都に留まって休養することを伝えるなどうやむやなところがあった。
結果、宣教師たちは九州を中心に再び布教活動を続けた。
ただ、この「伴天連追放令」については、秀吉の宣教師たちに対する大きな不信が根底にあったことは事実である。
そうである以上、今後はさらなる厳しい令に発展していく可能性はあったと思われる。

秀吉が明国征服の野望を初めて口にしたのは、関白就任直後の天正十三年(1585)のことである。
秀吉の家臣一柳市介宛ての書状に「日本国ことは申すに及ばず、唐国まで仰せ付けられ候心に候か」とある。
また翌年天正十四年に先のコエリョが大坂城で秀吉に謁見した際、秀吉は国内平定後は日本を弟の秀長に譲り、朝鮮と明国を征服するため新たに二千艘の船を建造する。
伴天連からは、大型帆船二隻と優秀な航海士を提供してほしい、もし、明国が自分に帰服すれば、明国人にキリシタンになることを命じ、日本でも半分か大部分をキリシタンにさせようと言ったという。

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