宣教師の見た秀吉㉒

秀吉はフィリピンへの使者派遣と前後して台湾にも書簡を送り、日本への服属を求めていた。
この書簡には「大明国が数十万の援兵を出して朝鮮を助けたが、今や勅使を遣わして降伏を乞うてきた、南蛮、琉球も使者を派遣してきた、もし貴国も来朝しなければ、諸将に命じて征伐する」という内容であった。
ただ、台湾にはこのときまだ国家が成立しておらず、書簡を手渡す対象が特定できず、これは失敗に終わった。
ただ、フィリピン総督は日本軍がフィリピンを攻めるには台湾を経由することから、秀吉より前に台湾を確保してそこに要塞を築くべきだとスペイン国王に上申している。
相変わらず、フィリピンは秀吉を恐れていた。

秀吉は「唐・天竺・南蛮」の征服構想を抱いていた。
「天竺」とはインド、南蛮は東アジアを指すと思われるが、当時、インドはポルトガルが支配し、東アジアもポルトガル・スペインが支配しているか、これから支配を実現しようとしている地域であった。
秀吉は先に送ったフィリピン総督への書簡の中で「(この書簡を)カステリア(スペイン)の王に書き送るべし。カステリアの王、遠方にあろうとも予が言を軽視すべからず」と述べていた。
要は、「秀吉が服属要求していることをスペイン国王にちゃんと伝えろ」ということである。
これに対して、フィリピン総督は秀吉に返書を遣わして、「服従のことを言っているようだが、スペイン国王は強大であり、フェリペ国王以外に従うことはない」と当然のように反発した。

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