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宣教師の見た秀吉⑪

実は秀吉がシナへの征服を口にしたのはこのときが初めてではなかった。秀吉は以前コエリョが大坂城を訪問した際も「海の彼方に進出して領土を拡張するのがこの先の夢である」とコエリョに語っていた。さらに「その際は南蛮船を提供するよう」と命令とも依頼と...
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宣教師の見た秀吉⑩

秀吉は島津が降伏した後、再び肥後八代に寄ったが、そこに各地から参集した諸侯が秀吉の御機嫌伺いにやってきた。「自分を訪ねて来る君侯や武将たちを、虫けら同然に見なし、彼らに対しても、下(九州)の殿たちに対して行ったと同様に彼奴(きやつ)呼ばわり...
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宣教師の見た秀吉⑨

だが、フロイスによると、九州島津征伐は海陸両面から導入された巨大な軍隊にもかかわらず、秀吉が想像していたほどの大きな戦果は上がらなかったようである。秀吉軍は肥後の八代から薩摩国境に進み、川内という大河のほとりに布陣した。だが、そこでは降り続...
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宣教師の見た秀吉⑧

「この西国の島(九州)は他島(本州)からは離れており、それに加えて幾多の戦力と軍兵が配備されている。関白自らが下向してくるなどとは虚構であり、当地方は遠く隔たり日本の果てにあるし、関白の背後には、信用の置けない大勢の大敵が控えている。もしも...
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宣教師の見た秀吉⑦

九州島津征伐秀吉が九州の戦国大名大友宗麟の援軍の要請に対して動き出したのは、すでに大友が島津との決戦(耳川・高城の戦い)に敗れてから八年が経過してからのことであった。その間、九州では島津が大きく勢力を拡張して、大友と並ぶ強敵肥前の龍造寺隆信...
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宣教師の見た秀吉⑥

北条征伐と九州征伐の実態天正18年(1590)秀吉は北条征伐に踏み切ったが、フロイスは北条の城(小田原城)には十分な貯えと兵力があり、そうやすやすと陥落するはずはないとの思いをもっていた。一方、秀吉は二十万の兵力を動員したものの、遠隔地から...
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宣教師の見た秀吉⑤

秀吉の暗部関白となった秀吉はおのれの出自を知る者が縁者を名乗ることを許さなかったようである。「ある日、一人の若者が豪華な衣装をまとった二、三十名の武士を従えて、関白の住む大坂に現れた。若者は伊勢の国から来た者だが、関白の実の兄弟だと言った。...
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宣教師の見た秀吉④

天正14年(1586)五月、宣教師コエリョと四名の司祭、修道士ら三十名は大坂城に秀吉を訪問した。そのときの模様を次のように記している。「やがて関白は自席から立ち上がり、コエリョのすぐ近くまできて座ったが、両人の間には畳半分ほどの隔たりもなか...
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宣教師の見た秀吉③

大坂城について「その城郭は、厳密に言えば、五つの天守から成っていた。すなわち、その各々は互いに区別され、離れており、内部に多くの屋敷を有するはなはだ高く豪壮な諸城である。それらのうち最も主要な城(本丸)に秀吉が住んでおり、その女たちも同所に...
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宣教師の見た秀吉②

フロイスは秀吉が信長の天下を簒奪したことについて「がぜん過去の仮面を捨て、以後は信長のことには何ら構わぬのみか、為しえること万事において信長を凌ぎ、彼より秀でた人物になろうと不断の努力をした。彼は安土山にいた信長の孫にあたる少年(三法師)を...