宣教師の見た秀吉⑲

これらにより、秀吉のイエズス会に対する不信感は強まっていった。
巡察使ヴァリニャーノはこれらのコエリョの軽率な言動、行動により秀吉は「伴天連追放令」を出すことになったと後に分析している。
「奴ら伴天連らは、別のより高度な知識を根拠とし、一向宗とは異なった方法によって、日本の大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。彼ら相互の団結力は一向宗のそれよりも強固である。このいとも狡猾な手段こそは、日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするためであることは微塵だに疑惑の余地を残さぬ」フロイスによれば、そう秀吉は述べたという。

秀吉の東アジア征服構想
秀吉は伴天連追放令の直前、天正十五年七月、対馬の宗氏に朝鮮が秀吉に服属するよう交渉役を命じていた。
さらに、その翌年天正十六年、薩摩の島津氏に琉球に使節を派遣し、入貢させるよう命じた。
天正十八年八月、小田原の北条氏を滅ぼし、奥羽の伊達氏を支配下に置いた後、同年十二月に対馬の宗氏の尽力により聚楽第にやってきた朝鮮通信使を前に秀吉は明国征服への協力を求めた。
明を宗主国とする朝鮮は当然これを拒否したが、秀吉は宗氏を通じてその後も明国征服への協力を求め続けた。
これと並行する形で、秀吉はその二ヶ月後の天正十九年閏一月(1591年3月)ポルトガル領インド副王の親書を持参したヴァリニャーノを京都聚楽第で引見した。
それに対して秀吉は親書を返すことにした。
その親書の当初の内容は「伴天連たちが再びやってきて布教を始めれば、これを滅ぼす」とあり、秀吉はその先にあるインド副王までも攻め滅ぼすという強気の姿勢を示した。

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