宣教師の見た秀吉⑳

この親書の内容ではとても届けることは出来ないと判断したヴァリニャーノは秀吉側近の前田玄以やキリシタンの黒田官兵衛に頼んで内容を変更してもらったが、それでも秀吉は「近く大明国に出兵し、これを征服する。そうなれば、貴国とはさらに近づくので交誼を深めたい。我が国は神国であるゆえ、伴天連による布教は禁じる」という内容であった。
ただ、秀吉は朝鮮出兵後の天正二十年に「征明の先鋒の衆には天竺近くを与える。以後は天竺を切り取るべし」という命令を出しており、ここから、明を征服したら次はインドまで兵を進めるという考えを持っていたことが分かる。
これと同じくして、秀吉は同年天正十九年十一月、同じくスペイン支配下にあるマニラのスペイン総督に書簡を出している。
その内容は「高麗人及び琉球、その他遠方の国は予に帰服して貢を納む。予は大明国を征服せんと欲す。その国(フィリピン)は未だ予と親交を有せず。よって予は行ってその血を取らんと欲す。これ旗を倒して予に服従すべき時なり。もし、服従すること遅延せば、予は速やかに征服を加うべし、後悔することなかれ」というものであった。
秀吉からの書簡を受け取ったフィリピン総督は、マニラに戒厳令を布き、スペイン国王にメキシコからの援軍を要請するなど非常事態を宣言した。
一方で秀吉に返書を送り、「秀吉の書簡を持参した原田孫七郎なる人物の格が低いので、本当に秀吉からの書簡であるのか偽書であるのか判断しかねる。なお日本との親交を希望する」と返事した。

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