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川中島合戦雑記9

川中島は単なる国境地帯などでは決してない。 そこは、信濃の他の地域とは異なる文化圏をもち、日本の阿弥陀信仰の本山ともいうべき善光寺を有する宗教上の聖地であり、また、日本中から参拝客と大量の物資が集積する政治経済上の要地でもあった。 まさに、...
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川中島合戦雑記8

だが、信玄も謙信もその後も何事もなかったように戦を続けている。 特に、合戦の二ヶ月後の十一月には武田軍は同盟者の北条氏の求めに応じて、関東に進軍し、小幡氏の国峰城を落としている。 一方の上杉軍も同じ十一月に同じく関東の武蔵生山で北条軍と戦っ...
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川中島合戦雑記7

川中島合戦では武田・上杉両軍に多数の犠牲者が出たとされている。 その数は一説には一万人以上ともいわれているが、もしそれが真実だとすると、まさに川中島合戦は戦国最大の合戦であるいえよう。 この犠牲者の数について、関白近衛前久は謙信への手紙の中...
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川中島合戦雑記6

二つ目の疑問は、この鞍骨山の尾根には川中島合戦以前からすでに武田軍の手で五ヶ所に城が設けられていたということである。つまり、妻女山はその周りを武田軍の城に包囲された山であるということなのである。 当然のことながら、妻女山に布陣するにはそれら...
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川中島合戦雑記5

川中島合戦は、上杉謙信率いる上杉軍一万三千が武田軍の本陣海津城を見下ろす妻女山に陣を布き、武田軍がその背後を衝くため一万二千の兵を差し向けたことから始まっている。 妻女山は武田軍の領地の真っ只中にあり、そこに謙信が布陣するなど常識ではとても...
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川中島合戦雑記4

合戦は、お互いが自分の意志で行ったのではなく、互いの意思に反して出会い頭にぶつかってしまった事故のようなものであった可能性が高い。 そこでは、お互い誰が敵か味方かさえも分からないような混乱の中で合戦が続けられたことが考えられ、その中で大将で...
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川中島合戦雑記3

当時、謙信は関東管領になったばかりで、今後は関東を舞台に北条氏と戦わねばならないという事情があった。 そのためには関白である近衛前久の力を必要としていたし、前久も謙信の力を頼ってわざわざ都から関東まで来ていた。 謙信としては、近衛の前に強い...
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川中島合戦雑記2

今まで見てきたこの合戦の話はというと、江戸時代初期の元和年間(一六一五~一六二三)に完成したとされる『甲陽軍鑑』という軍記書に書いてあるものなのである。 そこには確かに合戦の内容は詳しく描かれてはいるが、『甲陽軍鑑』は川中島合戦から五十年以...
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川中島合戦雑記1

川中島合戦は本当にあったのか? 永禄四年(1561)九月十日、信州川中島において武田信玄と上杉謙信が激突した。 そこでは、大量の戦死者が出、川中島を流れる千曲川は血で染まったとも伝えられている。 この合戦は、上杉謙信が一万三千の兵を率いて、...
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佐和山城下「聞書」の謎27(終わり)

井伊家は佐和山入部に伴い、佐和山城を破壊し、佐和山城下にあった神社・仏閣を破壊し、城下にあった村を潰し、さらには、石田家時代の神事・仏事を禁止し、石田時代の文書を破棄し、さらには、石田家や佐和山城に関する一切の話をも禁じていったが、 そこに...