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川中島合戦雑記15

鎌倉時代、この善光寺付近には悪党と呼ばれる幕府に反抗的な武士たちが多く集まっていた。それは善光寺のある地が宗教的な中心というばかりではなく、後庁という信濃国府の支庁が置かれたことからも分かるようにここが信濃北信地方の政治経済の中心であり、多...
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川中島合戦雑記14

鎌倉時代、善光寺は鎌倉幕府の創始者源頼朝も信仰をよせており、善光寺が治承三年(一一七九)焼失したときも、信濃の目代(国司の代官)などに命じて土木人夫を提供させている。また、頼朝自身も建久八年(一一九七)御家人を率いて善光寺に参詣したと伝えら...
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川中島合戦雑記13

古代の善光寺への参詣は開かれたものではなく、巡礼者や僧などの宗教者が主であり、一般庶民の参詣はなかったようである。(『長野県史』) この善光寺の名が全国的に知られるようになったのは、天台宗寺門派の本山である園城寺(三井寺)の末寺となってから...
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川中島合戦雑記12

また、仏教も日本海から信濃川をさかのぼってこの地に伝えられてきており、それを象徴するように、信濃の古い仏像は信濃の北部にその多くが伝わっている。その信濃北部の中でもこの川中島の地が仏教を早くから受け入れてきたことは事実であろう。それは、この...
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川中島合戦雑記11

現在、信濃の前方後円墳は全部で四十八が確認されているが、そのうちの二十が実は川中島にある。このことは、この地が信濃における古墳文化の中心地であったとともに、それを裏付ける豊かな生産力を有していたことを意味している。また、平安時代に作られた『...
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川中島合戦雑記10

川中島の起源は古い。そこは古代はかつて河床もしくは湖底であったと考えられており、それが犀川と千曲川の氾濫でやがて荒野原と化し、古代は狩猟の場であったと推定されている。また、犀川と千曲川両河川の度々の洪水により氾濫原となって、氾濫の繰り返しに...
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川中島合戦雑記9

川中島は単なる国境地帯などでは決してない。そこは、信濃の他の地域とは異なる文化圏をもち、日本の阿弥陀信仰の本山ともいうべき善光寺を有する宗教上の聖地であり、また、日本中から参拝客と大量の物資が集積する政治経済上の要地でもあった。まさに、川中...
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川中島合戦雑記8

だが、信玄も謙信もその後も何事もなかったように戦を続けている。特に、合戦の二ヶ月後の十一月には武田軍は同盟者の北条氏の求めに応じて、関東に進軍し、小幡氏の国峰城を落としている。一方の上杉軍も同じ十一月に同じく関東の武蔵生山で北条軍と戦ってい...
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川中島合戦雑記7

川中島合戦では武田・上杉両軍に多数の犠牲者が出たとされている。その数は一説には一万人以上ともいわれているが、もしそれが真実だとすると、まさに川中島合戦は戦国最大の合戦であるいえよう。この犠牲者の数について、関白近衛前久は謙信への手紙の中で「...
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川中島合戦雑記6

二つ目の疑問は、この鞍骨山の尾根には川中島合戦以前からすでに武田軍の手で五ヶ所に城が設けられていたということである。つまり、妻女山はその周りを武田軍の城に包囲された山であるということなのである。当然のことながら、妻女山に布陣するにはそれら五...