川中島合戦雑記15

鎌倉時代、この善光寺付近には悪党と呼ばれる幕府に反抗的な武士たちが多く集まっていた。
それは善光寺のある地が宗教的な中心というばかりではなく、後庁という信濃国府の支庁が置かれたことからも分かるようにここが信濃北信地方の政治経済の中心であり、多くの人や物資、諸国からの情報が集まってくるとともに交易がさかんに行われていたからである。
応永七年(一四〇〇)にこの川中島善光寺平の地で行われた「大塔合戦」を描いた『大塔物語』には「およそ善光寺は三国一の霊場、生身の阿弥陀様の浄土であり、日本の港ともいえるほど人の集まるところであって、門前市をなしている」とあり、当時の善光寺門前がいかに繁栄していたかが分かる。
当時、善光寺の参道は一直線で、参道を東西斜めに裾花川という川が流れており、この川に欄干をもった大きな橋がかけられていた。そこを渡ると木戸と柵が設けられており、そこでは武士といえども下馬することになっていた。
さらに、その先の善光寺南大門付近には鐘鋳川が流れており、この鐘鋳川と裾花川にはさまれた区域が善光寺門前であり、そこに後庁もあった。
そこでは定期的に市が立ち、善光寺如来と仏縁を結ぶことのできる境界の場として誰もが自由に往来できる都市的な場所であったという。(『長野市誌』) 
当時の善光寺では南大門を入った境内にまで町屋や商業地域が拡大していた(同)とされ、人と物資が集まり、市が立つという信濃第一の経済上の要地であった。
善光寺門前に信濃国府の支庁である後庁が置かれ、善光寺近くの平芝に守護所が置かれたのも、ここが信濃第一の政治経済の要地であり、ここを掌握する必要があったからである。
善光寺への参詣者の中には長期の滞在者もいたようで、善光寺には宿坊の設備があったとされている。
ただ、当時の宿坊は現在のように門前に集まっていたわけではなく、あちこちに散らばっていたようである。
善光寺町には僧侶のほかに仏像などを作る仏師、刀鍛冶なども大勢おり、また諸国から遊女、白拍子、田楽法師、琵琶法師などの諸芸人をはじめ漂白民も集まっていた。
善光寺町の人口は近世には一万人いたといわれているが(『善光寺さん』)、この時代もそれに劣らず活気に満ちた様相を呈していたことであろう。

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