川中島合戦雑記16

室町時代、建武二年(一三三五)ころ、時の後醍醐天皇の命を受けた信濃守護小笠原貞宗はただちに埴科郡船山(更埴市)に守護所を置いた。
船山は小県、佐久、関東上野を結ぶ軍事的にも要衝の地であったが、その後嘉慶元年(一三八七)までには守護所は時の守護斯波義種の手で善光寺門前の平芝に移されていった。
これは、平芝が船山よりさらに善光寺に近いことがその大きな理由とされている。
善光寺は門前町として北信の経済・宗教の中心地であり、守護としてここを押さえるためにその至近にある平芝に守護所を移したのである。
この嘉慶元年(一三八七)、北信の武将村上氏・高梨氏らは守護代の二宮氏にそむき平芝の守護所を攻めるため、漆田(長野市中御所)で守護の軍と戦った。
その報を聞いて、京都から駆けつけてきた守護代二宮氏は善光寺横山城に立てこもって応戦したとされている。
この平芝には守護所としての居館が営まれ、背後の山には詰の城として小柴見城、旭城が築かれ守護所の防備が固められていた。この平芝の守護所がどこにあったかについては諸説あるが、現在長野市中心部には「問御所」と「中御所」という地名が残っており、そこには土塁の痕跡が今日でも確認される。
特に「問御所」は明治初年の絵図によると、当時まだ方形状の土塁とそれを囲む堀が存在していたという。
これら「問御所」、「中御所」はどちらも守護所と考えられている。(『長野市誌』)
この二つの地名を地図で見てみると、ともに犀川の渡河地点であった丹波島と善光寺を結ぶ直線上に存在するところから、守護所がまさに善光寺の参道に面して営まれていたことが分かる。(『長野市誌』)
それは、まさに守護所が善光寺門前と一体の関係にあったことを何よりも物語っている。

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