川中島合戦雑記14

鎌倉時代、善光寺は鎌倉幕府の創始者源頼朝も信仰をよせており、善光寺が治承三年(一一七九)焼失したときも、信濃の目代(国司の代官)などに命じて土木人夫を提供させている。
また、頼朝自身も建久八年(一一九七)御家人を率いて善光寺に参詣したと伝えられている。
源氏政権の後を受けた鎌倉幕府執権の北条氏も善光寺に熱い信仰を寄せていたといわれ、善光寺に土地を寄進している。
特に、一族の名越氏は自身の知行地である鎌倉名越の地に新善光寺を建立するとともに、守護をつとめていた越中国にも新善光寺を建立したとされている。
北条本家である得宗家も鎌倉建長寺に善光寺如来の分身を置いていたといわれ、時の武士の最高権力者源頼朝、北条氏も善光寺に保護と尊崇をよせていたことが分かる。
これによって、全国の地頭・御家人の間にも善光寺信仰は大きく広まっていったのである。
また、正応二年(一二八九)後深草天皇の妃であった二条も善光寺に参詣していることから、善光寺信仰は京都の貴族の間にも広まっていたことが分かる。
善光寺には親鸞、一遍ら著名な宗教者も参詣しており、そのことも民衆の間に善光寺信仰が広まっていった大きな一因となったことであろう。
現在、善光寺の裏山の五輪平というところに、たくさんの五輪塔が残っているのは、当時全国から参詣にきた人たちが建てたものだと伝えられている。

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