川中島合戦雑記11

現在、信濃の前方後円墳は全部で四十八が確認されているが、そのうちの二十が実は川中島にある。
このことは、この地が信濃における古墳文化の中心地であったとともに、それを裏付ける豊かな生産力を有していたことを意味している。
また、平安時代に作られた『延喜式』にのっている信濃の神社四十八社のうちの三十一社、つまりその三分の二は川中島地方に集中している。
同じく九世紀前半にさかのぼって確認される信濃六十七郷のうち、二十九郷が北信にあり、そのうちの十六郷が川中島にある。
それは、川中島が千曲川流域に微高地としての自然堤防と千曲川の古い流路の跡が後背湿地として発達し、弥生時代から水田開発が進んだ地域であったことを裏付けている。
さらに、古代には川中島更科郡の石川・四の宮・八幡・桑原、埴科郡の雨宮・清野・寺尾に条里制が施されている。
この事実は、川中島地方が信濃のうちでも最も古くから開けた土地で人口も多く、それを支えるだけの経済的基盤があったことを示している。
また、善光寺の本尊、善光寺如来は飛鳥時代の作と推定されており、『善光寺由緒書』によればかつては飯田市座光寺にある元善光寺にあったとされているが、それがここ川中島に移ったのは、この地に仏教を受け入れる先進的な文化的基盤が当時すでに存在したことを表している。
この地には、大室古墳群に代表される渡来的な文化が早くから見られ、渡来人がもたらしたとされる須恵器も川中島南部にいち早く伝わっていることが分かっている。
この須恵器は五世紀後半になってやっと信濃全体にまで広がるが、ここ川中島ではそのずっと以前に伝わっていたのである

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