川中島合戦雑記10

川中島の起源は古い。そこは古代はかつて河床もしくは湖底であったと考えられており、それが犀川と千曲川の氾濫でやがて荒野原と化し、古代は狩猟の場であったと推定されている。
また、犀川と千曲川両河川の度々の洪水により氾濫原となって、氾濫の繰り返しによってそこに広範囲に土砂が堆積し沖積扇状地を形成していたと考えられている。
この氾濫により、河川の流路がたびたび変わり、旧流路が後背湿地として残されていくが、これが当時、自然の水田として利用され生産力を高めていたのである。
この川中島の地には古代から渡来人が住みついていたと推定され、川中島塩崎の伊勢宮遺跡や篠ノ井遺跡からは大陸からの渡来系弥生人と推定される人骨が発掘されている。
この渡来人こそこの地に最初に稲作を伝えた人々であったと考えられている。
また、縄文遺跡の発掘調査により、信濃でもこの北信地方は東北地方に広く分布している亀が岡系の土器が多く見られることから、川中島地方を含む北信は東北につながる文化をもっていたことがわかる。
これに対して、同じ信濃でも中信、東信地方は関東につながる文化であったとされている。
ここをみても、川中島の地は信濃の他の地域とは異なる北の文化圏をもっていたことがわかる。
これら北信の文化はシベリア方面の文化が信濃川をさかのぼる形で伝えられてきたと考えられており、それは日本海から信濃川という水路を通して入ってきたと推定されている。

タイトルとURLをコピーしました