川中島合戦雑記19(大文字一揆の武士たち)

また、主に犀川以北、善光寺方面を押さえていたのは大文字一揆と呼ばれるの領主たちであった。
彼らは、犀川流域を押さえることにより、犀川一帯の水陸にわたる交通路を押さえ、その流通に深く関わっていたものと思われる。
このうち、窪寺氏は善光寺から仁科方面、更科、小県、佐久、府中にいたる道筋と小市の渡しから善光寺の参道に至る道筋を押さえ、そこを監視する位置に窪寺城を構えていた。窪寺は大文字一揆の寄り合い場所でもある交通の要衝であった。
窪寺氏は鎌倉時代後期には善光寺の奉行人をつとめていた御家人である。
小市氏は善光寺へのメイン街道ともいうべき千曲川東街道の犀川渡河点小市の渡しを押さえていた。
後にこの窪寺・小市は小田切氏の支配下になるが、その小田切氏は犀川口(犀川の善光寺平への流入地点)に吉窪城を構えて、城の麓を通る善光寺道を押さえていた。
彼らは村上氏の支配下にはない独立した領主であった。彼らが独立を保つことができたのも、渡しや街道を押さえて大きな利益を得ていたからであろう。
落合氏は犀川の支流、裾花川上流の山間部にあって善光寺から飯綱・戸隠・越後へ抜ける戸隠道を押さえており、そこに葛山城を構えていた。後にこの城は武田信玄により落城させられるが、それは葛山城が川中島から戸隠・越後へ抜ける要衝の地に築かれていたことによる。
後に武田氏のもとで海津城の築城に関わることになる香坂氏も大文字一揆に属する領主であった。
香坂氏は犀川沿線の更級郡牧之島にあって松本平府中と安曇郡に向かう陸路の分岐点を押さえていた。
この地には後に武田信玄の手で牧之島城が築かれることになる。

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