川中島合戦雑記13

古代の善光寺への参詣は開かれたものではなく、巡礼者や僧などの宗教者が主であり、一般庶民の参詣はなかったようである。(『長野県史』)
 この善光寺の名が全国的に知られるようになったのは、天台宗寺門派の本山である園城寺(三井寺)の末寺となってからだと言われているが、その時期は定かではない。
ただ、十一世紀後半から十二世紀前半にかけて、地方の有力寺院の多くがが中央の権門寺院の末寺となっていることから、この時期には善光寺も園城寺の末寺となっていたものと推定されている。
当時、善光寺如来は阿弥陀如来とされ、しかも生身の阿弥陀仏如来であるという信仰が全国に広がったため、善光寺には日本全国から参詣の人々が訪れるようになるが、その背景には阿弥陀信仰と浄土思想の普及、平安時代中期にさかんになる霊験所めぐりの風習、諸国を遊行する聖の活躍などが指摘されている。(小林計一郎著『善光寺さん』)
当時、浄土思想は天台系とされる僧により受け継がれており、その意味でも園城寺の末寺となったことが善光寺の名を全国に普及させるのに大きく役立ったことは確かであろう。
また、善光寺の霊験にあやかろうと、当時、善光寺の本尊の模刻が盛んに行われ、それを安置する堂として、各地に新善光寺が建立されていった。
この新善光寺は武士層が自己の所領内に建立したものが多いといわれ、少なくとも鎌倉時代に二十ヶ寺、南北朝期に八ヶ寺の建立が確認されている。
これも、その本山としての善光寺の名を大きく普及する要因となったことであろう。
さらに、善光寺如来の霊験を説きつつ諸国を遍歴した「聖」と呼ばれる多数の半僧半俗の宗教者の草の根の活動も善光寺信仰を全国に深く根付かせる大きな要因となっていったに違いない。
こうして、善光寺信仰は、浄土宗がまだ成立する以前から全国に広まり、いつしか、全国の浄土宗寺院の総本山的な存在となっていき、信濃第一の大寺院として発展したのである。
この大きな影響力を背景に、やがて、善光寺の付近には後庁という信濃国府の支庁が置かれるようになり、この地は北信地方の政治の中心地ともなっていくのである。

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