川中島合戦雑記17(善光寺周辺の城と防衛)

嘉慶元年(一三八七)の戦いのように、当時の信濃は守護と善光寺在地の領主たちを含んだ北信の武将たちとがしのぎをけずっており、善光寺周辺は常に軍事的に緊張をはらんでいたといえる。
守護所の詰の城として小柴見城、旭城がその背後の山に築かれていたのもこのような事情があったからである。
また、善光寺のある台地の東端に横山城が築かれている。
この城はまさに善光寺の至近にあり、後に上杉謙信が川中島合戦において本陣を置いた場所でもあるが、この横山城も善光寺防衛のために当時の守護方が築いたものと考えられている。
このことをもってしても、当時の信濃の守護がいかに善光寺を重視していたかが分かる。
善光寺平は信濃国府のある松本平とならんで守護がどうしても押さえておかなければならないところであった。
善光寺は当時、政治・軍略上においてことの開始を広く明らかにし、おおやけに喧伝する場としてとらえられていた。(『長野市誌』)
守護として、そんな善光寺だけは誰にも渡すことはできなかったのである。
川中島が武田・上杉以前から戦場になっていた一番の理由は、何といってもそこが信濃の政治経済、宗教の中心である善光寺を擁する地であったことであろう。
この善光寺の地、川中島善光寺平を制するものにして初めて信濃を制することができたのである。
しかし、この善光寺平の地は単なる宗教上の聖地ではなかった。
そこには大文字一揆らに代表される在地の領主たちの善光寺に関する河川交通、流通などの様々な利権が長年のうちに複雑に絡み合っていた。
それが善光寺平の支配を困難にしている一番の因となっていたことは否めない。
彼らは、それが例え一国の守護であっても、自らの利権を侵すものには牙を剥いて立ち向かっていったのである。

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