川中島合戦雑記18(善光寺平の武将たち)

信濃北信地域は古代から同じ信濃の内でも中信、東信地域よりも日本海越後に近い文化をもっていた。
このことは、川中島善光寺平は単に信濃と越後の国境地域というよりも越後との結びつきの深い地域であったともいえる。
この地に、小笠原氏などの中央の守護の力が根ざさなかったのも一面そのような理由があったのかもしれない。
その意味で、川中島善光寺平は信濃の中でも特殊な地域であったといえるかもしれない。
それに加えて、ここには善光寺という信濃はおろか日本全国の尊崇を集める大寺院があったため、必然的に人や物資の流れが出来、松本平信濃府中と並んで信濃のもう一つの中心にならざるを得なかった。
この地に信濃後庁や守護所が存在したのは必然の流れであった。
一方で善光寺の存在はそこに様々な利害関係を生んでいった。
なぜなら、全国からの参詣者を迎える善光寺門前町及びそこに至る交通の要所である千曲川、犀川の渡しを押さえることは莫大な利益につながっていったからである。
武田氏侵入以前の川中島は、千曲川以南は村上氏及びその一族が支配していた。
かつて屋代四ヶ村の地頭をつとめていた屋代氏、隣接する雨宮郷の雨宮氏、英多荘(後の海津)に清野氏、西条氏、東条氏、寺尾氏がおり、彼らはそれぞれ村上氏の系譜に連なり、その勢いは千曲川を越えた川中島にも及んでいた。
彼らはそれぞれ支配地に山城を構え、村上氏の支配の下にあったものと思われる。
特に屋代氏は千曲川の渡河点で交通の要所である屋代の渡しを、雨宮氏は同じく雨宮の渡しを支配していたものと思われ、その渡しを見下ろす位置にそれぞれ屋代城、雨宮城(唐崎城)を構えていた。
関東からの善光寺の参詣者は必ずどちらかの渡しを渡らねばならず、そこを押さえることは大きな利益に結びついていたものと思われる。
この雨宮の渡しは永禄四年の川中島合戦時に上杉謙信の軍が千曲川を渡河した場所として有名であるが、そこを見下ろす位置には当時雨宮城がそびえていたものと思われる。
千曲川と犀川の間に位置する川中島の支配関係ははっきりしないが、そこには川中島の中央部布施高田の地を居館とする布施氏、四野宮、桑原郷を支配する桑原氏などがおり、両者はともに村上氏の勢力下にあったことから、川中島地域はおおむね村上氏の勢力下にあったものと思われる。

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