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慶長の山城 関ヶ原松尾山城15

小早川は家康方か三成方か?そして小早川は何のために特別仕様の陣城松尾山に入ったのか?小早川は松尾山城が特別な城であることは当然知っていたことであろう。小早川はここまで黒田長政らから家康方に付くよう誘いを受けていた。そこでは、北政所の名前まで...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城14

家康が美濃赤坂に到着すれば、東軍が勢いづくことは確実であった。しかし、当初の家康は赤坂で秀忠率いる3万5千の徳川軍を待つつもりであったろう。そして、三成も大垣で立花軍、小野木軍の関ヶ原到着を待つつもりであったろう。だが、その両者の思惑を打ち...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城13

竹中重門の寝返りは深刻な問題であった。石田三成らが家康軍を迎え撃つために関ヶ原に構築した構えがことごとく筒抜けになってしまうという事態を迎えた。それに呼応するように、家康軍は大将家康を待つ間に、垂井から関ヶ原にかけて焼き払い、関ヶ原への進軍...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城12

豊臣秀頼を擁して大坂城に西軍の総帥として家康に対峙していたはずの毛利輝元は、安国寺恵瓊を通して関ヶ原周辺の西軍の情報を集め、情勢を見ていたとされている。西軍内の寝返りなどは事細かく輝元に伝えられていたことであろう。西軍有利なら動く、不利なら...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城11

南宮山の毛利軍が動くか動かないかの鍵は山麓の安国寺が握っていたことは間違いない。毛利軍は関ヶ原合戦において二度動くチャンスがあった。一つは、家康軍が関ヶ原合戦の前日の深夜、目の前の中山道を通った時、そしてもう一つは合戦当日関ヶ原に入った家康...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城10

これまで、南宮山の毛利秀元を操り、不戦にもっていったのは一族の吉川広家といわれていた。それは、広家が南宮山山麓に布陣し、なおかつ、家康との間に不戦の誓書を交わしていたからである。しかし、南宮山に実際に行ってみると、吉川の陣と伝えられる場所は...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城9

南宮山は山頂部にこそ陣城の跡があるが、途中、曲輪らしき遺構はない。というより、山頂まで曲輪を設けるような平場がまったくないのである。そこから、自然、毛利秀元は山頂部に隔離されるような布陣になってしまった。毛利秀元の部隊は山麓の南宮大社境内に...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城8

関ヶ原松尾山城と垂井菩提山城は堅固に大部隊の駐屯と何よりそこに入る大将の身分を考慮して丁寧に作られている。この両城は極めて優れた縄張りを持つ慶長の山城であり、大規模な陣城である。この二つの城を見ると、関ヶ原合戦に対して西軍石田三成方が用意周...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城7

関ヶ原松尾山城と垂井菩提山城は、大軍の布陣を前提に築かれた大規模で整備された山城である。当然、そこには大部隊の布陣が予定されていたことはいうまでもない。この二つの城に共通するもう一つの特徴は何といっても本丸虎口の丁寧な作りであろう。松尾山は...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城6

関ヶ原の松尾山城と美濃垂井の菩提山城には、共通した特徴がある。その一つは、どちらも、関ヶ原合戦を前提に築かれた巨大山城であるということである。某テレビ局は、関ヶ原にある城山と呼ばれる山の山頂部に築かれた玉城を巨大山城と表現していたが、玉城は...