慶長の山城 関ヶ原松尾山城8

関ヶ原松尾山城と垂井菩提山城は堅固に大部隊の駐屯と何よりそこに入る大将の身分を考慮して丁寧に作られている。
この両城は極めて優れた縄張りを持つ慶長の山城であり、大規模な陣城である。
この二つの城を見ると、関ヶ原合戦に対して西軍石田三成方が用意周到な構えをして家康方を迎え撃つつもりであったことがよく分かる。
それに比べて、東軍の築いた本陣美濃赤坂の岡山の普請は極めて貧弱といわざるを得ない。
関ヶ原が一日で終わったため、家康方は本陣に戻る必要がなかったが、そうでなければ極めて危険な本陣と言わざるをえない。
結果からみれば、家康は二度と岡山には戻る必要がなく、余計な普請など不要であったのであるが。
実は、関ヶ原合戦の前日、家康が岡山に到着した折り、重臣の井伊直政は本陣を菩提山城に移すことを提案している。
このころは、菩提山城主竹中重門は家康方に寝返っており、城は必然的に家康方のものとなっていた。
西軍石田三成らが垂井の隘路を押さえるために大部隊の駐屯を意識して築いた大規模な山城は竹中氏の寝返りで敵方の拠点に変わってしまったのである。
犬山城に入っていた竹中重門が家康方に付いた時点でもはや菩提山城は敵の手に渡ってしまうことになった。
そのため、伊勢から転進してきた毛利秀元、長曾我部元親らは菩提山城に入ることができなくなった。
彼らは垂井の隘路を押さえるためには南宮山とその周辺の山に布陣するしかなくなったのであろう。
だが、南宮山には菩提山城のように一箇所にすべての部隊を収容できる規模も敵から身を守る高い要害性もなかった。

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