慶長の山城 関ヶ原松尾山城12

豊臣秀頼を擁して大坂城に西軍の総帥として家康に対峙していたはずの毛利輝元は、安国寺恵瓊を通して関ヶ原周辺の西軍の情報を集め、情勢を見ていたとされている。
西軍内の寝返りなどは事細かく輝元に伝えられていたことであろう。
西軍有利なら動く、不利なら動かない、それが南宮山とその山麓に布陣していた毛利軍に課されていた命令であったのではなかろうか。
西軍内での大きな情勢の変化は、犬山城に入って家康軍に備えていたはずの竹中重門の寝返りであった。
竹中の寝返りで、美濃垂井の菩提山城は家康方に押さえられ、伊勢から美濃に入る毛利軍は布陣するはずの城を失ってしまうことになった。
それが南宮山の布陣につながった。
そればかりではない。
当時、関ヶ原は六ケ村が竹中の領地で、三ケ村が石田三成の領地であった。
そこから、家康軍を迎え撃つために関ヶ原に築かれた様々な構えの構築に竹中が関わっていた可能性は極めて高い。
この竹中の寝返りによって、三成らの関ヶ原の構えはすべて家康方に筒抜けになったはずである。
この情勢は、当然のように大坂の毛利輝元に伝えられていたに違いない。
西軍不利。
輝元の心は大きく揺れ動いたことであろう。

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