慶長の山城 関ヶ原松尾山城10

これまで、南宮山の毛利秀元を操り、不戦にもっていったのは一族の吉川広家といわれていた。
それは、広家が南宮山山麓に布陣し、なおかつ、家康との間に不戦の誓書を交わしていたからである。
しかし、南宮山に実際に行ってみると、吉川の陣と伝えられる場所は南宮山の真下ではなく、少し離れた場所のあることが分かる。
南宮山の真下、すなわち毛利秀元直属の軍が布陣したのは南宮大社境内であり、それを率いていたのは安国寺恵瓊であった。
この布陣の様子から、毛利軍を実際に動かすことができたのは、吉川ではなく安国寺の方であったと思われる。
当時、吉川と大坂の毛利輝元とはやや疎遠の関係にあり、一方、安国寺は輝元の信頼厚く、輝元は安国寺に様々な命令を伝えていたとされている。
そこから、いくら吉川が単独で家康と不戦の誓書を交わしたとしても、どこまで有効であったかは疑問である。
実は吉川と安国寺も普段から疎遠で、意志の疎通がスムーズに取れていた可能性は低い。
そう考えると、南宮山の毛利軍の不戦を実現するには安国寺を抱き込むしかないのだが、吉川は安国寺に頭を下げて家康と交わした不戦の実行を訴えたのであろうか。
安国寺は吉川の意を受けて不戦に同意したのであろうか。

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