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慶長の山城 関ヶ原松尾山城19

小早川秀秋については、ここまでは完全に石田方として行動していた。だが、その間も黒田長政らから家康方につくよう何度も説得されていた。黒田らは最後は北政所の名を使ってまでも説得していた。確かな文書からは分からないが、関ヶ原に入るにあたっては、そ...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城18

家康軍が関ヶ原に兵を進めるには、関ヶ原を通る中山道の隘路を突破できることが条件であった。その一番のカギを握っていたのが、松尾山城である。そこに誰が入るのか、また、入った人物は間違いなく家康方に寝返る。その確証が得られない限り、安易に関ヶ原に...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城17

関ヶ原決戦前日、松尾山城に入ったのは小早川秀秋である。小早川はどのような意図をもって松尾山城に入ったのであろうか。そこにはいくつもの要素があったはずである。松尾山城には西軍の総帥たるべき人物、例えば、大坂城の毛利輝元が秀頼を奉じて入ること。...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城16

松尾山城が健在である限り、家康軍の関ヶ原突破は厳しいことであろう。家康は関ヶ原合戦の合戦を「山中の戦い」と言っているが、それは関ヶ原における中山道の隘路が山中村にあったからである。この隘路の突破こそが戦いの焦点であった。その山中村には中山道...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城15

小早川は家康方か三成方か?そして小早川は何のために特別仕様の陣城松尾山に入ったのか?小早川は松尾山城が特別な城であることは当然知っていたことであろう。小早川はここまで黒田長政らから家康方に付くよう誘いを受けていた。そこでは、北政所の名前まで...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城14

家康が美濃赤坂に到着すれば、東軍が勢いづくことは確実であった。しかし、当初の家康は赤坂で秀忠率いる3万5千の徳川軍を待つつもりであったろう。そして、三成も大垣で立花軍、小野木軍の関ヶ原到着を待つつもりであったろう。だが、その両者の思惑を打ち...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城13

竹中重門の寝返りは深刻な問題であった。石田三成らが家康軍を迎え撃つために関ヶ原に構築した構えがことごとく筒抜けになってしまうという事態を迎えた。それに呼応するように、家康軍は大将家康を待つ間に、垂井から関ヶ原にかけて焼き払い、関ヶ原への進軍...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城12

豊臣秀頼を擁して大坂城に西軍の総帥として家康に対峙していたはずの毛利輝元は、安国寺恵瓊を通して関ヶ原周辺の西軍の情報を集め、情勢を見ていたとされている。西軍内の寝返りなどは事細かく輝元に伝えられていたことであろう。西軍有利なら動く、不利なら...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城11

南宮山の毛利軍が動くか動かないかの鍵は山麓の安国寺が握っていたことは間違いない。毛利軍は関ヶ原合戦において二度動くチャンスがあった。一つは、家康軍が関ヶ原合戦の前日の深夜、目の前の中山道を通った時、そしてもう一つは合戦当日関ヶ原に入った家康...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城10

これまで、南宮山の毛利秀元を操り、不戦にもっていったのは一族の吉川広家といわれていた。それは、広家が南宮山山麓に布陣し、なおかつ、家康との間に不戦の誓書を交わしていたからである。しかし、南宮山に実際に行ってみると、吉川の陣と伝えられる場所は...