慶長の山城 関ヶ原松尾山城9

南宮山は山頂部にこそ陣城の跡があるが、途中、曲輪らしき遺構はない。
というより、山頂まで曲輪を設けるような平場がまったくないのである。
そこから、自然、毛利秀元は山頂部に隔離されるような布陣になってしまった。
毛利秀元の部隊は山麓の南宮大社境内に布陣するしかなくなったのである。
山麓から山頂までは険しい道を一時間ばかり登らなければならない。
携帯電話も無線もないこの時代、山麓の部隊と山頂の大将との連絡はスムーズに取れるはずはない。
確かに、南宮山への布陣は形は垂井の隘路を押さえる目的をもったもののように思われるが、大将と部隊との意思の疎通が取りにくい状況からその有効性は疑問であろう。
菩提山城を家康方に取られたことは、このような歪を生む結果になったといえる。
ここでは、家康方と戦う意思は、山麓部隊の動きいかんにかかっていた。
その山麓部隊を率いていたのは、吉川広家ではなく安国寺恵瓊であった。

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