慶長の山城 関ヶ原松尾山城13

竹中重門の寝返りは深刻な問題であった。
石田三成らが家康軍を迎え撃つために関ヶ原に構築した構えがことごとく筒抜けになってしまうという事態を迎えた。
それに呼応するように、家康軍は大将家康を待つ間に、垂井から関ヶ原にかけて焼き払い、関ヶ原への進軍を目指す意思を明確にした。
福島正則らは次のターゲットは佐和山城攻撃としたが、それには進軍を阻む関ヶ原の構えを突き崩す必要があった。
しかし、関ヶ原に構築された三成らの構えは筒抜けになったからといって、それ自体が弱体化するようなものではなかった。
この構えが十分に機能すれば、家康軍が容易に突破できないだけの威力をもっていた。
家康が美濃に到着することは時間の問題となったが、徳川本軍3万5千は信州上田の城攻めに時間を取られ、さらに木曽川の増水に阻まれ、美濃への到着はしばらく時間を要することは確実であった。
家康としてはできれば時間を稼いで、本軍の到着を待って三成と決戦するという選択肢がベストであったろう。
しかし、三成も家康に対抗するためには、大津城攻めを終えた立花宗茂1万5千、丹後宮津攻めを終えた小野木軍一万を関ヶ原に終結する必要があった。
それには、あと数日を要することになるであろう。
関ヶ原決戦の直前は両者ともそのような事情を抱えていた。

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