慶長の山城 関ヶ原松尾山城19

小早川秀秋については、ここまでは完全に石田方として行動していた。
だが、その間も黒田長政らから家康方につくよう何度も説得されていた。
黒田らは最後は北政所の名を使ってまでも説得していた。
確かな文書からは分からないが、関ヶ原に入るにあたっては、その後も、家康方か味方に付くよう水面下で工作が行われていたに違いない。
そして、小早川は関ヶ原合戦前日、松尾山城に城番を追い出す形で半ば強引に入った。
この行為は石田、家康、どちらの意を受けてのことであろうか。
両者はそれをどう受け取っていたのであろうか。
松尾山城は石田方の眼目ともいうべき戦略的に重要な城であった。
小早川はそれを十分理解していたがゆえに、城番を力で追い出してまでも城に入る必要があったと思われる。
しかし、小早川が家康方に寝返るつもりでこの城に入ったとしても、その目的は十分に果たされたとは思えない。
実は、松尾山城というのは単独では動けない、足枷を持っていた。
それゆえ、小早川が松尾山城に入ったという行為だけでは、石田方、家康方共にどちらの味方なのかは判断がつかなかったはずである。

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