慶長の山城 関ヶ原松尾山城18

家康軍が関ヶ原に兵を進めるには、関ヶ原を通る中山道の隘路を突破できることが条件であった。
その一番のカギを握っていたのが、松尾山城である。
そこに誰が入るのか、また、入った人物は間違いなく家康方に寝返る。
その確証が得られない限り、安易に関ヶ原に兵を進めることなどできなかった。
関ヶ原には石田三成らによって構築された家康を迎え撃つための厳しい構えがいくつも構築されていた。
大谷陣は中山道を真下に見下ろす位置に築かれ、宇喜多陣は周囲を川と土塁で守られ、中山道の隘路にはそれを塞ぐ土塁が構築されている。
また、小西陣から北國街道に向けても強固な土塁が構築されていた。
まさに、関ヶ原への家康軍の進軍は三成方によって築かれた城攻めと言ってよかったろう。
そこではまともに攻めてもいたずらに犠牲者が出るばかりであろう。
しかし、ぐずぐすしていると関ヶ原にはさらに立花、小野木ら約三万の兵が駆け付ける。
そうなれば、三成方の優位は動かない。
家康としては、彼らが駆け付ける前に何としても決着を付けねばならない。
そこに小早川が突然現れ、松尾山城に入った。
小早川は切り札に成り得るのか、それとも、新たな敵となるのか。
家康はそれを何をもって判断したらよいのか。

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