慶長の山城 関ヶ原松尾山城21

松尾山山麓の脇坂の陣は関ヶ原方面に虎口を開き、空堀と土塁を設けている。
これだけみれば、味方であるはずの石田方を警戒しているように思える。
しかし、脇坂陣は背後の松尾山に対しても切岸を設け、これも警戒しているように思える。
つまり、脇坂陣はどちらに対しても味方であり、敵であるというポーズを取っているのである。
ここに脇坂の置かれた立場がよく表れているような気がする。
脇坂は戦況次第でどちらにも付く態勢を取っていたということである。
それゆえ、松尾山に入った武将が石田方か徳川方かによって、脇坂の動向も決まるということになる。
家康は関ヶ原合戦後、脇坂の働きを認め、賞賛しているが、脇坂と同じ動きを取っていたはずの赤座、小川については改易という厳しい態度で臨んでいる。
ここから考えられることは、脇坂は関ヶ原合戦当日石田方から変節して小早川と動きを共にしたのではなく、合戦の前から家康方となっていたということである。
恐らく、小川や赤座の部隊は合戦当日の脇坂の動きに同調して行動した、つまり彼らの変節は合戦当日であったがゆえに、家康は厳しい処断を課したのではなかろうか。
そう考えると、家康にとって、脇坂をどう使うかが重要な問題であったのではなかろうか。
脇坂こそ実はダークホースであった。

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