慶長の山城 関ヶ原松尾山城23

ただ、問題は石田、家康、双方で関ヶ原での合戦がいつ始まるかということである。
合戦というタイミングがない限り、双方の寝返りは難しい。
また、大津城の攻防に勝利した立花宗茂ら1万5千が、丹後宮津城を攻めを終えた小野木1万が近日中に石田方に合流することになろう。
そして、家康方の本軍秀忠3万5千はいまだ到着する気配がない。
家康方が石田方を攻めるタイミングを失えば、石田方は圧倒的に有利になる。
その情勢は、南宮山の2万5千の動きに影響を与え、彼らが山を下りて動く可能性もある。
そうなれば、松尾山・山麓の寝返りはますます困難になろう。
福島正則らの軍議によれば岐阜城の次のターゲットは石田三成の居城佐和山城であることは確実である。
関ケ原はその通過点に過ぎない。
石田方は関ヶ原の隘路で、家康軍を破り、その残党を佐和山城に兵を集め討ち取る計画であったのかもしれない。
佐和山城は三成が隠棲して以降、度々修築工事が繰り返され、堅固な構えになっていた。
佐和山は北國街道、中山道が交わる地点に築かれており、この時点では三成の居城というより、石田方西軍の軍事的要塞という役割を担っていた。
どれを見ても、合戦のタイミングがすべてを決めることは間違いない。
この時点では、家康方は綱渡りのような危うさを感じていたことであろう。

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