慶長の山城 関ヶ原松尾山城26

慶長5年(1600)9月14日深夜、石田方は大垣城を出て、関ヶ原へと向かった。
しかも、松明の火を消し、馬に轡をかませ、家康の裏をかくように中山道ではなく、牧田の間道を通って移動した。
そこでは、南宮山の隣の山に布陣していた長曾我部隊の篝火が目印になったことであろう。
行軍の途中、三成は毛利、長曾我部、長束合わせて3万の部隊に戦闘が始まったらノロシを合図に行動を開始するよう伝えたという。
しかし、合戦が始まると大量の鉄砲の火薬の煙で空は真っ黒になるはずで、そこからノロシを見分けることは困難だったろう。
それに何より、毛利、長曾我部、長束の陣からは関ヶ原はまったく見えない。
開戦、途中経過などはリアルタイムでは分からなかったはずである。
三成が期待したのは、関ヶ原に深入りした家康方を三者が背後から襲い、挟み撃ちにするということであったろう。
石田方が大垣城を出て関ヶ原へ移動したことを知った家康は深夜にも関わらず、彼らの後を追うようすぐに命を出した。
この家康の行動、さらには家康方の部隊がスムーズに動けたことから、石田方が動くことを予想していたか、あるいは石田方が動いたらすぐに後を追うことを決めていたか、もしくは、いつでも出陣できる準備をさせていたに違いない。
大軍は事前の準備なしにはすぐには動けないからである。
しかし、家康が関ヶ原に向かって動くにはすぐ目前に大きなハードルがあった。
それでも家康はそれを無視するかのように、メイン街道である中山道を行軍し、関ヶ原へ向かった。

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