慶長の山城 関ヶ原松尾山城25

家康が美濃赤坂岡山の本陣に入ったのは、関ヶ原合戦の前日9月14日の正午ころであった。
このとき、石田方主力は大垣城にいたが、小早川秀秋1万5千の大軍が松尾山城の番をしていた部隊を追い出して強引に入城したという知らせが石田、家康、両者に伝えられた。
ここから、両者は、いや石田方は動きを開始する。
岡山の本陣をかく乱するように小競り合いを仕掛け、攻めると見せかけ夜半に大垣城を出て関ヶ原へ向かう。
しかも、大軍の移動にもかかわらず、牧田の間道を通って小早川のいる松尾山の下を回り込み関ヶ原に入った。
関ケ原にはすでに何日も前から大谷吉紹、脇坂らが中山道山中の隘路を押さえるべくすでに布陣し、三成らが布陣するのを待っていた。
さらに、三成らはやみくもに布陣したのではなく、布陣する場所はあらかじめ決められていた。
宇喜多隊は土塁に囲まれた天満山山麓、小西は天満山の北東、これまた土塁を前面にした平地、島津は小西の側の周囲に切岸が施された場所、三成は二段の曲輪を備えた笹尾山。
これらは以前から彼らのために用意されていたもので、俄かに作られたものではない。
これ一つとっても、石田方は関ヶ原で家康を迎え撃つための周到な準備をしていたものと思われる。
石田方が大垣城を出て動いた理由は何か。
一つには、家康がまだ岡山に到着したばかりであり、また、石田方が岡山に向けて攻めるかのような動きを見せたことから、守りの態勢に入っていると判断したことにもよるだろう。

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