慶長の山城 関ヶ原松尾山城24

家康は、南宮山の毛利軍が動かないこと、脇坂が松尾山に入った小早川と共に石田方を寝返って、関ヶ原山中の隘路の防備を家康方に突破させる。
この二つの要素が確実でない限り、関ヶ原に兵を進めることなどできなかったはずだ。
家康は合戦前日の正午ころ美濃赤坂の本陣に到着したが、そのとき、この二つの要素は家康の満足のいく答えを出していたのであろうか。
家康を囲んだ軍議の後、井伊直政は家康の本陣を普請の甘い赤坂の岡山から防備の堅い垂井の菩提山城に移すよう提案している。
この時点では、大垣城にまだ石田方の中心部隊がおり、家康が到着した以上、赤坂の岡山では防備は心もとない。
そこでは、しばらくは大垣城とにらみ合いが続く可能性があり、さらにはもう少し時間を稼いで、秀忠が率いる3万5千の兵の到着を待つという選択肢も考えなければならない。
もし、秀忠が到着したら岡山の本陣ではとても収容などできない。
その点、菩提山なら普請も規模も本陣を置くには申し分ない。
直政は、それらの様々な要素を考えて家康に提言したのであろう。
また、直政は、菩提山城がいつでも家康を迎えられるよう準備をしていたに違いない。
しかし、家康は結果的にこの申し出を一蹴した。
家康は、ここでは石橋を叩くような地度は見せずに短期決戦を主張したのである。
それは、危険な賭けに等しい決断だと直政はじめ重臣たちは思ったことだろう。

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