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慶長の山城 関ヶ原松尾山城26

慶長5年(1600)9月14日深夜、石田方は大垣城を出て、関ヶ原へと向かった。 しかも、松明の火を消し、馬に轡をかませ、家康の裏をかくように中山道ではなく、牧田の間道を通って移動した。 そこでは、南宮山の隣の山に布陣していた長曾我部隊の篝火...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城25

家康が美濃赤坂岡山の本陣に入ったのは、関ヶ原合戦の前日9月14日の正午ころであった。 このとき、石田方主力は大垣城にいたが、小早川秀秋1万5千の大軍が松尾山城の番をしていた部隊を追い出して強引に入城したという知らせが石田、家康、両者に伝えら...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城24

家康は、南宮山の毛利軍が動かないこと、脇坂が松尾山に入った小早川と共に石田方を寝返って、関ヶ原山中の隘路の防備を家康方に突破させる。 この二つの要素が確実でない限り、関ヶ原に兵を進めることなどできなかったはずだ。 家康は合戦前日の正午ころ美...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城23

ただ、問題は石田、家康、双方で関ヶ原での合戦がいつ始まるかということである。 合戦というタイミングがない限り、双方の寝返りは難しい。 また、大津城の攻防に勝利した立花宗茂ら1万5千が、丹後宮津城を攻めを終えた小野木1万が近日中に石田方に合流...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城22

松尾山に入った小早川が寝返るには、山麓の脇坂隊の同調が欠かせなかなった。 両者が同時に動いてこそ、寝返りは成功し、石田三成方に致命的なダメージを与えることができる。 そして、結果から考えると、脇坂と小早川との間には事前に寝返りの入念な打ち合...
お知らせ

慶長の山城 関ヶ原松尾山城21

脇坂は関ヶ原以前、確かに家康に書状を送っている。 しかし、これはかなり以前のことでこれがそのまま家康に通じているという証拠にはならない。 脇坂はその後大谷吉紹と共に行動しており、関ヶ原への布陣も大谷と同時期に行っている。 大谷の使命は、関ヶ...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城21

松尾山山麓の脇坂の陣は関ヶ原方面に虎口を開き、空堀と土塁を設けている。 これだけみれば、味方であるはずの石田方を警戒しているように思える。 しかし、脇坂陣は背後の松尾山に対しても切岸を設け、これも警戒しているように思える。 つまり、脇坂陣は...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城20

松尾山城に入った小早川軍15000が家康方となって石田方に攻撃をしかけたとしても、山麓には石田方の部隊、具体的には脇坂、小川、赤座の部隊がおり、それを阻むように配置されている。 小早川軍が松尾山城を下りたとき、まずそれらの軍と死闘を繰り広げ...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城19

小早川秀秋については、ここまでは完全に石田方として行動していた。 だが、その間も黒田長政らから家康方につくよう何度も説得されていた。 黒田らは最後は北政所の名を使ってまでも説得していた。 確かな文書からは分からないが、関ヶ原に入るにあたって...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城18

家康軍が関ヶ原に兵を進めるには、関ヶ原を通る中山道の隘路を突破できることが条件であった。 その一番のカギを握っていたのが、松尾山城である。 そこに誰が入るのか、また、入った人物は間違いなく家康方に寝返る。 その確証が得られない限り、安易に関...