慶長の山城 関ヶ原松尾山城28

そう考えると、南宮山の毛利軍ら三万の大軍が動かなかったのは、家康への内通が原因ではないことになる。
結論的にいえば、南宮山の大軍の行方はすべて大坂城にいる毛利輝元の意志であった。
毛利輝元は信頼する安国寺恵瓊を使って、大垣、関ヶ原周辺の石田、徳川、両者の詳細な情報を集めさせていた。
輝元は、安国寺に、それによって動くか動かないかを判断させたのである。
関ケ原合戦前日、石田方の防衛線の要ともいうべき松尾山城に小早川秀秋1万5千の大軍が入った。
これにより、小早川は山麓の脇坂隊と合体することが可能になり、強固な寝返りの構図が出来上がった。
これが成功すれば、家康方による関ヶ原の防衛線の突破は可能になる。
また、美濃垂井の領主竹中重門の寝返りによって、関ヶ原の石田方の防衛線が筒抜けになると同時に菩提山城が家康方の手に入ることになった。
もし、家康方が現在の本陣岡山を出て菩提山城に入れば、今度は南宮山の毛利軍が直接対峙する状況となる。
さらに、大津城攻めに思いのほか時間がかかり、強力な応援部隊である立花宗茂ら1万5千がいまだ関ヶ原に到着できそうにない。
確かに、秀忠の3万5千の本軍もいまだ到着が遅れているが、家康が到着したことで、家康方は一つにまとまり勢いを増している。
このような情勢を見て、安国寺は石田方不利と判断したのではなかろうか。

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