慶長の山城 関ヶ原松尾山城27

家康が大軍を動かせる一番の前提は、美濃垂井南宮山の毛利・長曾我部・長束の三万の兵が動かないということである。
彼らが山を下りて動けば、家康方は進路を妨害されるばかりか、そこで合戦にもなろう。
何せ、南宮山の前面には中山道が通っているのである。
もし、仮に、彼らが家康の進軍時動かないとしても、関ヶ原へ深入りすれば、背後から襲われる恐れもある。
南宮山の三万の大軍が終始動かないという絶対の保証がない限り、家康は進軍などできる状況ではないのである。
従来、合戦前日、家康は南宮山麓に布陣する毛利一族の吉川広家と不戦の誓詞を交わしたことがその根拠とされてきた。
しかし、誓詞など何回交わしても、合戦の本番になればどう状況が変わるかは分からない。
それを唯一当てにするのは危険が多すぎるのである。
それに、吉川広家自身、南宮山の本軍の動きを止めるだけの力が本当にあったのか。
というのは、吉川は大坂にいる毛利輝元とは不仲であり、吉川が毛利輝元を説得して不戦に追い込むのは不可能だと思われるからである。
また、吉川の陣は南宮山の真下ではなく、少し離れた所にある。
南宮山の真下にいて、山頂の毛利秀元の動きを押さえられるのは、毛利家の重臣安国寺恵瓊であった。
安国寺は輝元の信頼が厚く、ここまでの行動はすべて輝元の意志を体現していたと思われる。

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