ブログ 佐和山の思い出11 佐和山城はなぜあれほど徹底的に破壊されなければならなかったのか。 おそらくあれほどの破城は類を見ないであろう。 ただ、佐和山城は関ヶ原合戦後すぐに破壊されたわけではなく、戦後、破損された建物は修理され、しばらくは井伊直政と重臣たちが佐和山を... 2022.01.15 ブログ
ブログ 佐和山の思い出10 佐和山の山頂周辺、つまり本丸があったところ周辺にはわずかであるが石垣の残石、石垣に組み込まれていたであろう巨石、鏡石を見ることができる。 さらには、その辺りを注意深く歩くと瓦片も落ちていることがある。 私は本丸南の直下、多分この辺りは本丸へ... 2022.01.12 ブログ
ブログ 佐和山の思い出9 佐和山城は中世の山城をベースに主要な部分を近世城郭にしたものと考えられていますが、彦根城築城にあたって凄まじい破城を受けたことで、高石垣が消滅し、土の城になってしまいました。 そこから、一見すると中世の山城に戻ったような印象があります。 事... 2022.01.08 ブログ
ブログ 新年にあたって いよいよ新しい年、2022年がやってきました。 今年も何とか体に気を付けて、研究に、執筆に、講座に、講演に頑張りたいと思います。 また、「義に生きたもう一人の武将石田三成」の発刊から10年以上も経過し、新たな史料が出たり、関ヶ原の現地調査を... 2022.01.02 ブログ
ブログ 佐和山の思い出8 もう随分昔のことになりますが、石田三成の子孫であられる石田多加幸氏から興味深いお話を聞いたことがあります。 それは江戸時代、彦根城築城に伴う佐和山の破城についてのことですが、石田氏が仰るには佐和山城を壊すとき、廃材を佐和山の谷(女郎ヶ谷か?... 2021.12.29 ブログ
ブログ 佐和山の思い出7 先週の土曜日25日放映のBS11「偉人・素顔の履歴書」に出演させていただきました。 いつも思うのは石田三成の全体像はとらえるのが大変難しいということです。 部分部分は合っていても、全体像となると決定版などいまだありません。 それほど、三成は... 2021.12.27 ブログ
ブログ 佐和山の思い出6 佐和山城はもともと中世戦国時代の城であったものを織豊系城郭に変えたと思われ、両方の遺構が混在している。 そのため、小さな曲輪も多い。 その曲輪がすべて石垣作りであったとは思えない。 ややこしいのは、彦根城が築かれるに及んで佐和山城のほとんど... 2021.12.25 ブログ
ブログ 佐和山の思い出5 柴田左近が大手から見た佐和山城は、高石垣の上に天守や櫓の建つ立派なものであったろう。 今に伝わる謡によれば、大手からは山頂の本丸御殿の豪壮な屋根も見えたようである。 佐和山城は豊臣政権の中枢、奉行筆頭の石田三成の城として外見は豪華な作りであ... 2021.12.21 ブログ
ブログ 佐和山の思い出4 佐和山城の大手といえば、ある一つの出来事を思い出す。 それは慶長四年に起こった加藤清正、福島正則ら七将による三成襲撃事件により、三成が佐和山に引退させられた時のことである。 家康の命で三成は奉行筆頭の座を追われ、居城佐和山に引退させられたが... 2021.12.18 ブログ
ブログ 佐和山での思い出3 大手門跡が残っているところは必然的に佐和山城の大手になるが、そこは街道に面した場所で、琵琶湖側は搦め手ということになる。 しかし、琵琶湖は京都までの重要な水路であり、水運の要であったことを考えれば、決して搦め手とはいえない要素もある。 事実... 2021.12.15 ブログ