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関ケ原前夜「慶長記」を読む6

このころ「北國陣」の噂がしきりに流れていた。「北國陣」というのは、越中加賀の中納言、前田利長征伐のことである。家康は前田家に謀反ありとして、越中出陣を匂わせていた。前田利長は父利家の意志を継いで、秀頼を守り、家康に対抗しようとしていたが、家...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む5

家康襲撃の情報を伝えてきた奉行の増田長盛は、とりあえず大坂での家康の御座所を自分の屋敷とし、二日後には大坂城中の石田正澄の屋敷を当てがった。石田正澄は三成の実兄で堺奉行をつとめていたが、正純は堺へと移っていった。こうやって家康は秀頼のいる大...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む4

三成の奉行職を奪い、佐和山に引退させた家康は佐和山城に家臣の柴田左近を遣わした。三成の様子を探り、三成が戦に備えて佐和山城の改修などを行っていないかを確かめるのが目的であったのだろう。三成は機嫌よく左近を歓待し、ごちそうを振舞い、帰りには小...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む3

三成襲撃を企て実行に及んだ七将に対し、家康はまだ幼い秀頼公のもとで、このような騒ぎを起こすとは何事だと諫めたものの、結局、彼らの罪を問うことはなかった。そして、家康はこの騒ぎのもとを作ったとして三成に奉行からの引退、居城佐和山城への隠棲を命...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む2

三成襲撃未遂事件の裏に両者の根深い対立を見た中老の生駒親正、堀尾吉晴、中村一氏は家康にもっと防備の整った屋敷に移るよう進言する。それは伏見向島の古城であった。家康は彼らの意を受け、向島古城を修築してそこに移ることにする。古城修築の間、周辺に...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む1

昨日、25日はNHK学園歴史講座で講生の皆様と「慶長記ー関ヶ原前夜」を読むと題して「慶長記」を学びました。「慶長記」は家康の侍医であった板坂朴斎が関ヶ原合戦前後に見聞きしたものをまとめたものとされ、家康の周辺の興味深い出来事が綴られている。...
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鎌倉と一の谷 その1

現在、NHK大河ドラマの関係で、鎌倉に関心が集まっている。鎌倉は当時「鎌倉城」とも呼ばれ、城と認識されていた。もちろん、鎌倉内に城などない。頼朝の屋敷も鎌倉幕府のあった場所も城といえるような作りではなかったろう。それでは、なぜ、鎌倉は「鎌倉...
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佐和山の思い出12

佐和山城はかつて城内に寺や坊が同居していた、いわば宗教的バリアによって守られた聖なる空間に築かれた城であった。それを破壊するとなると、次の城はそれ以上の霊的な空間に築く必要があった。聖地彦根寺の端座する彦根山はそれにふさわしい場所であったと...
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佐和山の思い出11

佐和山城はなぜあれほど徹底的に破壊されなければならなかったのか。おそらくあれほどの破城は類を見ないであろう。ただ、佐和山城は関ヶ原合戦後すぐに破壊されたわけではなく、戦後、破損された建物は修理され、しばらくは井伊直政と重臣たちが佐和山を居城...
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佐和山の思い出10

佐和山の山頂周辺、つまり本丸があったところ周辺にはわずかであるが石垣の残石、石垣に組み込まれていたであろう巨石、鏡石を見ることができる。さらには、その辺りを注意深く歩くと瓦片も落ちていることがある。私は本丸南の直下、多分この辺りは本丸へ入る...