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関ケ原前夜「慶長記」を読む10

六月十八日、家康は夜にもかかわらず、石部を発った。家康の行動はすばやかった。「こうじふくろ」という所に本多忠勝が留まり、人は通すが馬上の武士は止めて警戒した。服部半蔵は鉄砲頭として七名を率い、鉄砲の火縄に火をつけ、本多忠勝は騎馬武者に下知し...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む9

伏見城で家康は城将の鳥居元忠と対面した。伏見城は豊臣家の京都での拠点となる城郭であったが、家康はそれを完全に私城としていた。家康の敵はいずれ伏見城奪還に動き出すことであろう。そのときは、鳥居らが籠城して敵を防がねばならない。家康は「この城は...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む8

家康はついに会津の上杉討伐に踏み切った。増田、長束、前田の三奉行は時期を先に延ばすよう進言したが、家康は耳を貸そうとはしなかった。家康は諸大名に上杉討伐を通告し、主に東海道筋に所領を持つ大名が動員された。これに加え、細川忠興、黒田長政、浅野...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む7

しかし、上杉景勝は家康の再三の要請にも上洛しようとはしなかった。上杉はあくまでも謀反の噂を流した相手と対決し、真偽を明らかにするのが筋だというのである。上杉家の宰相直江兼続はそれを書状にして家康に送り、筋の通らない上洛などしないと言い切った...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む6

このころ「北國陣」の噂がしきりに流れていた。「北國陣」というのは、越中加賀の中納言、前田利長征伐のことである。家康は前田家に謀反ありとして、越中出陣を匂わせていた。前田利長は父利家の意志を継いで、秀頼を守り、家康に対抗しようとしていたが、家...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む5

家康襲撃の情報を伝えてきた奉行の増田長盛は、とりあえず大坂での家康の御座所を自分の屋敷とし、二日後には大坂城中の石田正澄の屋敷を当てがった。石田正澄は三成の実兄で堺奉行をつとめていたが、正純は堺へと移っていった。こうやって家康は秀頼のいる大...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む4

三成の奉行職を奪い、佐和山に引退させた家康は佐和山城に家臣の柴田左近を遣わした。三成の様子を探り、三成が戦に備えて佐和山城の改修などを行っていないかを確かめるのが目的であったのだろう。三成は機嫌よく左近を歓待し、ごちそうを振舞い、帰りには小...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む3

三成襲撃を企て実行に及んだ七将に対し、家康はまだ幼い秀頼公のもとで、このような騒ぎを起こすとは何事だと諫めたものの、結局、彼らの罪を問うことはなかった。そして、家康はこの騒ぎのもとを作ったとして三成に奉行からの引退、居城佐和山城への隠棲を命...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む2

三成襲撃未遂事件の裏に両者の根深い対立を見た中老の生駒親正、堀尾吉晴、中村一氏は家康にもっと防備の整った屋敷に移るよう進言する。それは伏見向島の古城であった。家康は彼らの意を受け、向島古城を修築してそこに移ることにする。古城修築の間、周辺に...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む1

昨日、25日はNHK学園歴史講座で講生の皆様と「慶長記ー関ヶ原前夜」を読むと題して「慶長記」を学びました。「慶長記」は家康の侍医であった板坂朴斎が関ヶ原合戦前後に見聞きしたものをまとめたものとされ、家康の周辺の興味深い出来事が綴られている。...