関ケ原前夜「慶長記」を読む6

このころ「北國陣」の噂がしきりに流れていた。
「北國陣」というのは、越中加賀の中納言、前田利長征伐のことである。
家康は前田家に謀反ありとして、越中出陣を匂わせていた。
前田利長は父利家の意志を継いで、秀頼を守り、家康に対抗しようとしていたが、家康は機先を制して、前田を攻めることを公言していた。
事実無根の冤罪に、利長は怒り、家康と対決する道を選ぼうとしたが、母の芳春院がそれを阻止し、家康に屈する道を選んだのであった。
家康はさらに前田家に芳春院を人質に出すことを要求し、芳春院がそれを受け入れたことで、この問題は決着することになった。
前田家は家の存続を第一義とし、家康に屈服。
家康はここに政敵の芽をつぶすことに成功した。
家康は立て続けに今度は会津の上杉景勝をターゲットにするべく動き出した。
上杉は帰国すると領国整備に取り掛かり、街道の整備、国境の警備の充実、さらには阿賀野川沿いに新城を取り立てるなどの施策を次々と実行していった。
景勝にとっては久しぶりの帰国であった。
景勝は秀吉が亡くなる直前に会津への国替えを命じられたばかりで、領国の整備は喫緊の課題であった。
やらなければならない課題は山積みであった。
しかし、この上杉の動きを家康に謀反の疑いありとして密告した者がいた。
景勝の旧領越後の堀秀治と秋田仙北角館の戸沢政盛である。
家康はその事実を確かめるべく、家臣の伊奈図書を上杉のもとへ遣わしたのであった。

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