関ケ原前夜「慶長記」を読む3

三成襲撃を企て実行に及んだ七将に対し、家康はまだ幼い秀頼公のもとで、このような騒ぎを起こすとは何事だと諫めたものの、結局、彼らの罪を問うことはなかった。
そして、家康はこの騒ぎのもとを作ったとして三成に奉行からの引退、居城佐和山城への隠棲を命じた。
これについては、他の大老毛利輝元、上杉景勝との相談の上ということであったが、家康主導であったことはいうまでもない。
三成は反家康派、毛利輝元、上杉景勝、佐竹義宣、宇喜多秀家、大谷吉継らをまとめる要であったが、家康はその要を外しにかかったのであった。
三成が佐和山に帰るにあたって、近江の瀬田まで佐和山から三千人の兵三成警護のためにが出向いてきた。
三成はいまだ加藤清正や黒田長ら政に途中を狙われる可能性があった。
七将の襲撃はまだ終わってはいなかったのである。
そのため、家康の意を受け、結城秀康も三成を警護して瀬田までやってきた。
三成は秀康に感謝し、正宗の刀を送ったとされる。
こうして、三成は家康によって中央政界を追われ、一人佐和山に去っていった。
三成がいなくなると、中老の生駒親正、堀尾吉晴、中村一氏は家康に堅固な伏見城に移るよう進言する。
家康は待っていたとばかり、すぐに伏見城に入ったが、家康が伏見城に入ると、西大手を浅野長政、長束正家、北松の丸出口を前田玄以、増田長盛、二の丸門を堀尾吉晴、田中吉政らがすすんで警護した。
三成がいなくなると、奉行たちはなし崩しに家康に尾っぽを振って接近していった。

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