佐和山の思い出11

佐和山城はなぜあれほど徹底的に破壊されなければならなかったのか。
おそらくあれほどの破城は類を見ないであろう。
ただ、佐和山城は関ヶ原合戦後すぐに破壊されたわけではなく、戦後、破損された建物は修理され、しばらくは井伊直政と重臣たちが佐和山を居城としていた。
井伊氏としてはこのまま城に手を加え、新たな居城にするという選択肢もあった。
しかし、結果的に佐和山城を破城とし、湖に近い彦根山に新たに城を築いた。
ただ、問題は、彦根山はただの山ではなく平安の時代から人々の信仰を集めていた彦根寺をはじめ、いくつかの寺が端座する霊山であったということだ。
そこに城を築くとすれば、それらの寺をすべて移築する必要があった。
特に、彦根寺は名刹として都からわざわざ参詣する人々も多かったという。
そんな人々の厚い信仰の場を奪ってまでも彦根山に城を築く必要があったのか。
実は佐和山もただの城山ではなく、そこには寺やその坊などが同居していたとされている。
佐和山もある意味霊山であったということである。
城主の石田三成自身も佐和山に母の菩提を弔うために寺を建てている。
そこに城を築くということは宗教的バリアに守られることを期待しているということなのであろう。

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