関ケ原前夜「慶長記」を読む4

三成の奉行職を奪い、佐和山に引退させた家康は佐和山城に家臣の柴田左近を遣わした。
三成の様子を探り、三成が戦に備えて佐和山城の改修などを行っていないかを確かめるのが目的であったのだろう。
三成は機嫌よく左近を歓待し、ごちそうを振舞い、帰りには小袖を五つ、本阿弥の鑑定書のある脇差をおもやげにもたせた。
柴田はそれらを家康に詳細に報告し、三成は静かな隠居生活を送っているようだという印象を伝えたことであろう。
三成はこのとき家康を追い詰めるための壮大な方策を考えていたと思われるが、そんな様子などは微塵も見せなかった。
家康は、この三成の様子に安堵したのか、それとも逆に深い疑いをもったのか。
ただ、家康の手元には三成の嫡子重家がおり、一応は安堵したのではなかろうか。
これにより、家康の政敵たちは鳴りを潜め、家康の周囲には穏やかな空気が流れようとしていた。
慶長四年(1599)九月七日、家康は秀頼に節句の祝いを述べるために大坂に入った。
するとまたしても奉行の増田長盛から家康襲撃の噂があると伝えてきた。
討っ手は土方勝久、大野治長らだという。
結局、出仕の日には何も起きなかったが、伏見から家康の重臣平岩親吉が駆け付け、伏見城にも緊張が走った。
伏見城は防備が固められ、結城秀康が家康の留守を守ることになった。

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