関ケ原前夜「慶長記」を読む5

家康襲撃の情報を伝えてきた奉行の増田長盛は、とりあえず大坂での家康の御座所を自分の屋敷とし、二日後には大坂城中の石田正澄の屋敷を当てがった。
石田正澄は三成の実兄で堺奉行をつとめていたが、正純は堺へと移っていった。
こうやって家康は秀頼のいる大坂城にまんまと入ることができた。
さらに、今度は北政所が大坂城西の丸を出て京都に移ることになり、家康は北政所にいた西の丸に入ることになった。
「慶長記」には「北政所の御はからい」とあり、北政所が家康に気を使って大坂城を出たことになっているが、後に三成らが家康を糾弾した「家康違いの条々」には、家康は北政所を大坂城から追い出して西の丸へ入ったとしている。
どちらが真実かは分からないが、家康は思い通りに大坂城に入り、秀頼を手元に置くことに成功したことは事実である。
これで家康は秀頼を擁して思い通りのことが出来る環境を整えることに成功した。
北政所が移った場所は、近年発掘でその存在が明らかになった「京都新城」であったと思われる。

慶長五年(1600)、関ヶ原合戦のあるこの年、家康は大坂城西の丸で諸大名から新年のあいさつを受けた。
これについては、秀頼が家康のために西の丸に御殿の広間を造営してくれ、その広間であいさつを受けている。
これに気を良くしたのか、家康は、この年、二月、三月にかけて西の丸に天守を建て始めた。
この天守の造営を担当したのは藤堂高虎である。
大坂城冬の陣屏風には、本丸の天守閣の他に家康の建てたもう一つの五層の天守が描かれている。
大坂城にそびえる二つの天守は二人の天下人の存在を暗示させたことであろう。
三成は「家康違いの条々」において、この家康による天守造営についても厳しく糾弾している。

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