関ケ原前夜「慶長記」を読む2

三成襲撃未遂事件の裏に両者の根深い対立を見た中老の生駒親正、堀尾吉晴、中村一氏は家康にもっと防備の整った屋敷に移るよう進言する。
それは伏見向島の古城であった。
家康は彼らの意を受け、向島古城を修築してそこに移ることにする。
古城修築の間、周辺に境原康政、本多忠勝、井伊直政らは小屋掛けしたり、家を作って家康の警備にあたった。
屋敷が完成すると諸大名らは我先にと家康邸を訪れる。
そんなとき、加藤清正、黒田長政、細川忠興、福島正則らが三成を襲撃するという事件が起きる。
彼らが、三成襲撃を図った日は、大老前田利家が息を引き取った日であった。
彼らは、利家の死を待って、三成を襲撃したのであった。
朝鮮の陣で三成に遺恨を抱いていたとされる彼らであったが、彼らの言い分は「三成が家康を討ち果たすための企みを仕掛けようとしているからだ」というのである。
彼らの目的はまさに家康の命を狙う三成を先んじて討つことにあったのである。
彼らは、家康がその嫡子に養女を娶わせた者ばかりである。
彼らは自らが家康党になるにあたって、大きな手土産というか証を示したかったことはいうまでもない。
それが三成襲撃であった。

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